地震防災連続セミナー
第8回 「災害社会史からみた名古屋の近世と近代」
講師: 北原 糸子(国立歴史民俗博物館客員教授)
場所:環境総合館1階 レクチャーホール
日時:2003年12月10日(水)17:00-19:00
防災で大事なことは「災害をイメージする」ことです。しかし、地震や火山噴火を実際に体験する機会はほとんどないので、過去の災害に学 んだり、世界の災害を知ることが重要になります。今回の講師の北原先生は日本における歴史災害研究の第一人者で、本年7月に開催された 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の企画展示「ドキュメント災害史1703-2003」の代表もつとめられました。名古屋大学災害対策室は、 その企画展の展示内容や展示手法を勉強したり、実際の展示物を譲渡していただいたりする中で、北原先生とお知り合いになり、このセミナ ーを開催することができました。
今回は愛知県公文書館など学外の歴史研究の方にも多数の出席をいただきました。合計で53名の参加者がありました。
北原糸子先生。今回の講演の大きなテーマは二つで、1つは災害情報から見た江戸時代の名古屋の話、 もう一つは近世と近代の災害対応の違いでした。
書画カメラを使い多数の史料を映しながら、史料に書いてある内容が解説されました(書画カメラ係は災害対策室の木村玲欧助手でした)。
濃尾地震のときの政府の対応は現在研究中のホットな話題でした。数年後に研究が進展したら、また 名古屋大学へお呼びしたいと考えています。
セミナーに参加しての感想
「いつもとちがって、今日は潤いのある話を」という紹介で北原糸子さんの講演が始まった。 内容は、“災害情報から見た名古屋”と、“近世と近代の災害対応の違い”。私はメディアの人 間として、特に興味深かった前者について感想を述べたい。江戸時代、名古屋は、江戸と比べて も特に“情報を集め蓄積する力のある都市”であったという。地理的に、江戸、京都、大阪など の情報が通過する場所だったというだけでなく、御三家お膝元として幕府の特別な情報が入る。 さらに情報を求め、楽しみ、蓄積する武家と町人の安定した文化があった。江戸、京都、大阪か ら流れてくる文化、それは、蝸牛のごとく、波紋を広げていく、その情報が、交わり、蓄積され る場所名古屋。文化論的には柳田国男「蝸牛考」を思い出し、理学的には、地震の震央決定を連 想させる。そこに当時としては異例のビジュアル災害誌:世直双紙が生まれた。この災害誌は貸 本屋「大惣」の注文による。流行本を中心とする貸本屋が災害誌を編纂し、さらにアーカイブス していたのも面白い。災害史のアーカイブス。これは、今日的課題でもある。地震予知研究計画 の次期建議には災害の歴史研究が盛り込まれると聞く。「現在は過去の鍵である」「地震は繰り 返し起こる」これらのパラダイムにもとづいて、地震予知研究は成り立っている。今一度その原 点に立ち返り、さらに災害やその対策を見直すことは「過去は将来の鍵である」につながる。歴 史地震やより古い時代の、古地震の情報は、一般の市民にとって“まだ見ぬ災害”に対する想像 力をかき立て、現実感を与えてくれるはずだ。北原さんの講演を聴いて、今日的災害史のアーカ イブスには、理学・工学的パラダイム検証のための定量化という視点と、一般社会への防災意識 や災害理解の喚起の手段という2つの視点が求められると感じた。
山口勝(NHK名古屋放送局)
今回初めて連続セミナーに参加した。江戸期に起こった近江地震と明治期に起こった濃尾地震 の災害対応の比較がされていたが、中でも興味をひいたのは情報に関してである。
情報伝達という面において、阪神・淡路大震災を契機に広く話題にされてきた。では現在より 遡っての情報伝達はどうだったのか。特に民衆における情報伝達に素朴な興味があった。 古文書を紐解くと、勤番日記等の日記類から、災害や世の中の噂話などを読みとることができ る。「京都に買付に行った〜右衛門に聞いたところによると」や「〜からの書状には」と情報が 個人を経由し、通過していったことがわかる。情報は「出版物」として都市部を中心に広がり、 災害情報もニュースとして扱われていく。それは今回の話の中でも指摘されていた。背景には一 部分とはいえ、多趣味な藩士と庶民の交流等があったことはいうまでもないだろう。それは講演 中に出てきた「世直双紙」(名古屋の災害を絵と文で描いた)を描いた猿猴庵に代表される。人々 が独自に情報を共有することが可能になり、情報の定着化と拡大の糸口を作ったのではないだろ うか。
最後に余談だが、愛知県公文書館で地震を扱った企画展を開催した。その史料調査の中でいく つかの地震の記述が見られる勤番日記を見ることができた。その一例を挙げておく。
「明石藩日記」(原本・愛知県公文書館所蔵),「西村次右衛門日記」(刊本・豊橋市史編纂室),「田原藩日記」(刊本・田原町教育委員会編)
野村晃子(愛知県公文書館・嘱託)
情報とは収集し蓄積してはじめて活用することができる。名古屋の都市としての特徴は情報が 通過しており、大都市ではないのでその情報を交換するネットワークが存在していることである。 それゆえに都市として歴史を重ねた分の情報を多く所有しているのが名古屋である。この歴史的 情報をさかのぼることにどのような意味があるのであろうか。近世の災害に対する対応は今の視 点からみると統制がとれていない。これは当然のことで絶対的な知識が少ないために対処方法と しての説得性に欠けているのであろう。近世の災害時の対処の特徴は救済処置が個々の住民に依 存していること、教育の継続性が規定されていないことである。しかし近代になるとその時間の 経過以上に都市としての災害への対処に統制がとれていると感じた。救済処置として個別的、国 家的な救済となり、学校教育の継続性も規定されるようになった。明治という時代になり内から だけでなく外からも情報が流通するようになり、一般の人々の地震に対する意識が向上し、都市 としての意識が向上したのであろう。このように時代を重ねるにつれて防災力は向上している。 これは情報の蓄積を活用した成果である。これからの防災を考える時、本返し縫いの観点から今 までの経緯を知ることは最低条件であり、振り返ってはじめて進展する。それゆえ、古文書から 歴史を振り返る必要があると感じた。
成田忠祥(環境学研究科都市環境科学専攻M1)
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